研究と貢献のあいだ

2019/04/29

質問。
アナタは病院に行きました。
医者から薬を処方され説明を受けました。
指示どおりに飲まなかったものの、
聞いた記憶のない副作用が出ました。
アナタは怒り・疑い・やるせなさを感じています。
さて、この思いをどういますか?
この問いに対し、たいていの人は
「医者に文句または現状を伝えに行く」
と答えると思う。
では、次の質問はどうだろう。
アナタは頑強な防波堤のある、安全を唱う町に引っ越しました。
町からは津波ハザードマップが無料配布されました。
地震が起こりましたがハザードマップに従いませんでした。
防災無線も聞こえずアナタは津波被害に遭いました。
アナタは怒り・疑い・やるせなさを感じています。
さて、この思いをどういますか?
この問いに対し、多くの人々は
「地震学者は何をやっているんだ!
予知なんかできないじゃないか!」
と、地震学者に向けて怒りの声を発するであろう。
私は大変な疑問を感じている。
同じ人が、なぜ薬のことなら正しい手続きを踏むのに、
地震のこととなると、なぜあらぬ方向に怒りをぶつけるのか。
たいへいの震災で同じことが繰り返されるが、
被害に遭われた方ではなく、被害に遭ってない外野の人間から
このような心ない声を多く聞く。
なお、この投稿は被害に遭った方へ向けたものではない。
正しい理解を促すべく、また今後、人々が大きな被害に見舞われないよう
切に、切に願う意味から投稿している。
過激な表現もあるかも知れないが、ご了承いただきたい。
さて、二つの質問の各文章が1対1対応になっているのはわかるだろう。
だったら、津波被害に遭った怒りは、まずは町(行政)にぶつけるべきではないか?
はじめに言っておくが、実はどちらの質問も怒りを表すのはお門違いである。
なぜなら、
「薬を指示どおり飲まない」
「ハザードマップに従わない」
と、自己の責任に帰する行動をしているからだ。
それでも「それは地震学者の言い訳だ」
と、やはり非難の矛先を学者に向け続ける人は多いだろう。
ここで、後半の理解を促すために、
まずは薬の質問について詳しく見ていく。
1.アナタは病院に行きました。
その病院に行ったのはなぜか?
この病院なら安全だと、自分で判断したはずである。
または、地理的要因からやむなくその病院しか選べなかったのだろう。
2.医者から薬を処方され説明を受けました。
医者は、正規の手続きを踏んでいる。
リスクについても説明している。
地理的要因から唯一の選択肢であり安全と見なしていない病院に行く場合、
不安・疑問・質問は医者にぶつけるべきだがしていない。
3.指示どおりに飲まなかったものの、
なぜ指示どおりに飲まなかったのか?
これも自己判断か、自己管理の欠如がゆえであろう。
4.聞いた記憶のない副作用が出ました。
医者は説明済みである。
記憶がないのは自分の責任。
記憶力がないならメモするべき。
さて、ここまでで薬の場合は自己に大いに問題があることが分かる。
ただし、4.には、自己以外に責任がある場合がある。
それは、
a.製薬会社が薬の重大な欠陥を隠していた。
b.製薬会社が調合する化学物質の危険性を理学者は伝えていたが、
製薬会社はその化学物質を使用した。
c.理学者が化学物質の危険性を伝えていなかった。
d.調合される化学物質の危険性に理学者は気づいていなかった。
aは、今の世の中さすがにこんな悪質なことはないだろう(と信じたい)。
だが、もしまかり間違ってこんなことがあったら、
アナタの怒りの矛先は製薬会社に向くだろう。
bは、製薬会社の判断で、
その危険の範囲が許容できるものとみなしたえでの製薬だったのだろう。
cは、まずあり得ないと考えられる。
なぜなら、理学者と製薬会社に、危険性の伝達に関わる利害関係はないからである。
で、d。
今までこんな事件は聞いたことがない。
しかし、基礎理学の研究に従事する者(理学者)が把握しきれない自然は無数にある。
こうなると、もう誰にも責任はない。
副作用が出た人は理学者を訴えたいだろうが、
仮に裁判になっても無罪だろう。
地震の質問もこれと同じことだ。
医者=町(行政)
製薬会社=建設業者
理学者=地震学者
と読み替えれば良いだけである。
1.アナタは頑強な防波堤のある、安全を唱う町に引っ越しました。
自分の判断でその町に引っ越している。
2.町からは津波ハザードマップが無料配布されました。
ハザードマップを配布=町の危険性の告知を町はしている。
しかしアナタはハザードマップへの質問をしていない。
3.地震が起こりましたがハザードマップに従いませんでした。
従わなかったのも自己判断。
4.防災無線も聞こえずアナタは津波被害に遭いました。
津波の前に大きな地震が起きたから壊れたのではないか?
となぜ考えなかったのか?
そもそも、ハザードマップは無視し、防災無線だけに頼る理由は何か?
結局自己判断の結果であろう。
4も薬の時と同様、自己責任に帰さない場合がある。
a.町が防災対策を軽んじていた。
b.建設業者が、地震学者のいう「可能性」の上限ではなく、
予算の範囲内での仕事しかしなかった。
c.地震学者でも把握しきれない自然の猛威が襲った。
過去にaやbで被害が広まった例はある。
しかし、そのときも多くの人は町(行政)・建設業者を飛び越えて
地震学者を非難した(例:阪神淡路大震災)。
地震学者への非難がいかにお門違いであったか、
ご理解いただけただろうか。
さて、東北地方太平洋沖地震はcであった。
そのため、多くの犠牲を出してしまったのは否めない。
しかし、犠牲者一部はやはり
「自己判断で避難しなかった」
のではなかろうか。
もし、これに対しても地震学者が非難を受けるのであれば、
それは大きな間違いというものである。
怒りや無知が故の判断ミスで、他人を批判しても何も改善しない。
重要なのは、日進月歩の科学でも限界はあり、
最終的な判断は自分でするしかない。
そのために与えられた教養や啓発の機会は逃すことなく、
正しい判断のために使おう、と意識して生きることである。
ここまで、それぞれの立場の人間の役割と責任を
明確に分断して述べてきた。
しかし実際、多くの地震学者は、自らの責任の範囲を超えて
激しい自責の念に駆られ、今後への方策を検討中である。
それは、次のようなものである(と私は解釈している)。
「我々の研究が追いつかなかったのが非常に悔やまれる。
二度とこのようなことのないように、
分野・専門・役職の垣根を越えて教育・啓蒙に励まねばならない」
彼らの仕事は研究である。
しかし、この強い自責の念が、
研究の枠を超えた教育・啓蒙へと向かわせているのだろう。
そして、より正しい教育(知識の伝播、判断力の増強etc)を
推進するには、やはり研究の進展が不可欠である。
いつまでも「○○という可能性がある」というだけでは
説得力に欠けるからだ。
「○○という事象が確認されている。
そのメカニズムは△△である。
だから××してほしい。」
と言えるように、さらなる研究の進展を望む。
自然の動きを「防ぐ」のではなく、
自然の動きを理解し「適切な行動に移す」ための人智を蓄積するために。