【回顧録:阪神淡路大震災】①1月17日の衝撃

2019/04/29

1995年の阪神淡路大震災(阪神大震災)から、
早くも15年が経ちました。
朝目が覚めると、近隣から大きなテレビの音がします。
朝っぱらから珍しいなぁ、何かあったのかなぁ、
とテレビをつけると、目に飛び込んできたのは
真っ黒な闇の中に広がる一面の火の海。
阪神_直後_火災_空撮
(写真の出展:岐阜県HP
兵庫県南部地震(※)は
1995年1月17日午前5時46分に発生しました。
突如起こった地震による、
冬の長い暗闇のなかで
最初に分かる被害でした。
※この震災を引き起こした、地震という現象の名称です。
もう15年も経ちますから、
この映像を知らない人も多くなってきてます。
地獄です。
闇の中を飛び回るヘリコプターからの
遠い画(え)でもわかるくらいの地獄です。
地獄絵図のあまり思考回路が停止しました。
漠然と日本の風景ではないと思っていると…
飛び込んできたのは
「今朝、関西地方を襲った地震」
という言葉。
関東の人間なら、
「関東大震災」は常に意識しています。
しかし、関東ではなく、関西といってます。
日本のほぼ誰も考えてもいなかった場所での
できごとです。
次々と速報が入ってきます。
空が白んできたときの空爆にあったような街の映像。
震源地、
震度分布、
被害状況、
そして死者数。
死者数は時事刻々と、数値を大きくしていきます。
筆者がこの惨状を理解するまでには
かなりの時間を要しました。
一通り報道内容を頭にたたき込むと、ふと
「そうだ!学校!」
その業界にいるわけですから、
報道と違う情報が学校にはあるはずです。
無我夢中で学校に向かいました。
すると、どうでしょう。
学校は、静かです。
1923年の関東大震災以来、
日本人が経験したことのない規模の
大都市での震災。
教授陣はとっとと現場に行ってしまっていました。
なぜ、急行できるのか。
この業界にいる教授等の研究者は、
たいてい、何らかの国の委員会のメンバーです。
たとえば、地震予知連絡会や火山噴火予知連絡会です。
このような(委員)会のメンバーは、
当時ポケベルをもたされていました。
地震の第一報が気象庁等に入電したとき、
一斉にメンバーに連絡がいきます。
携帯電話がそれほど普及していない時代でも、
緊急の連絡が一研究者に届けば、
メンバーでない研究者にも
情報はあっという間に広がります。
こうして研究者たちは、
現場に急行する体制を整えられるのです。
さて、学校。
教える人がいなくなれば、
授業のかなりのコマが休校。
次の日からも、いつ授業が再開するかわかりません。
大御所先生は現場でなく、
メディアに拘束されていたことは、
帰宅後、わかりました。
ラジオをつければ先生の声、
次にテレビをつければ先生の姿と、
生放送の随所でお目にかかりましたから。
あとで聞けば、
「○○○(某キー局)に呼び出されたと思ったら、
ホテルまで用意されており、
そのまま軟禁状態だったよ」
とのことでした。
過去に、地球科学分野の先生が
メディアからこのような扱いをされることはありませんでした。
それだけ、日本にとって大事件だったのです。
「震災は、忘れた頃にやってくる」
と言います。
しかし、そもそも忘れてはなりません。
神戸や淡路島、ひいてはその周辺にお越しの方は、
ぜひ1995年1月17日を念頭に置いて、
彼の地に赴いてください。
それと、この機会ですから、
阪神淡路大震災を知らない人、
記憶に残ってない人、
忘れてしまった人、
忘れそうな人、
ぜひYoutubeで「阪神淡路大震災」を検索してください。
当時の報道番組、その後の特番など、
多数の映像が落ちています。
そして、記憶にとどめてください。
震災は忘れてはなりません。
震災は多くの犠牲者を出しています。
かといって、
震災の恐怖に囚われて身動きが取れなくなってはいけません。
彼ら犠牲者が、なぜこのような目に遭ったか。
それは、彼らの最期の姿を忘れないでいることで、
今を生きる我々個々人の行動に生かすこと、
それが重要だと、 筆者は考えます。