リケジョアンケートが成り立ってしまう残念な日本

2019/04/29

『アンケート調査でわかった「リケジョ」の魅力と真実』
こんなアンケートが成り立ってしまうほどに日本人のレベルは低いのか、と驚きを禁じ得ない。

筆者の出身高校(共学)では当時、男女差ほぼなく理系が4,5割はいた。
この時点で「理系は」「文系は」と、マイナーグループの特性を見いだすのが難しい。なにしろどちらもメジャーだから。

この記事でまず初めに出てくるリケジョのイメージは「理屈っぽくて勉強ばかりしていそう」であるが、我が校では「理屈っぽい」も「勉強ばかり」もどちらも当てはまらない生徒ばかりであった。
みな、論理的かつ文武(もしくは文芸)両道で、人を語るときはその個性で話した。

どうも、「理屈っぽくて勉強ばかりしていそう」という男性は、「女性は非論理的で勉強嫌い」という偏見があるに過ぎない気がしてならない。
筆者の育った環境のせいか、平時でも男女無関係に発言に論理性を求められたし、生徒たるもの勉強も部活もどちらも一生懸命にやって当たり前だった。
だから、男性が女性に「理屈っぽい」ということもなければ「勉強しすぎだ」という非難はあり得なかった。

それでも男女を分けて語るべきときがあったがそれは、筋力など性差に起因する違いによるものくらいだ。

次に、文系女子と理系女子の違いであるが、当時、とくに差は見られなかった。
服装について語られることが多いようだが、文理にかかわらずおしゃれな人はおしゃれ、無頓着な人は無頓着であった。

そんなことより、そのときの自分の人生で何を大事にしたいかで、日々の生活スタイルが決まっている生徒の方が多かったように思う。
恐らく大学入学後も我が校の生徒達は、理系だ文系だではなく、大学で自分は何を為し得たいかで生き方が異なっていったと思う。

ここまで読んで多くの人は「それは、その学校が特殊だったからだ」と思うに違いない。
果たしてそうだろうか?
男女や文理の違いで生徒に対する扱いを変える学校の方が特殊(不平等)ではなかろうか?
ちなみに我が校の校則はほぼないに等しく、ただ一言「紳士淑女であれ」。
したがって、入学したばかりの15歳の時点で我々は、自分自身の生き様を体当たりで判断し決めていかねばならなかった。
そこに、男女差・文理差は存在しない。
存在するのは個性だけである。
高校としてこんな生徒の育て方(いや、放任なので「育ち方」のほうが正解か)が成り立つのだから、リケジョもブンダンも生まれない。
これこそ、一切の特殊性を排除した、正しい高校としてのあり方と思うが、いかがだろうか。

しかし、高校に入学してからではやや遅いと筆者は考えている。
唯一高校前から実践して欲しいのは、義務教育に当たる先生方がもつ「女子は理系が苦手」という偏見を取り去ることだ。
その無意識の偏見・固定観念が子供達にどの程度影響するかは不明であるが、良い方に働くとはとても思えない。
親も然り。
得手不得手は二の次で、大人の偏見は脇に置き、子供が興味もったものを素直に伸ばしてあげる、その姿勢が非常に重要なのではないかと考える。